今井町を知る
~その歴史と魅力


「ももや」は、近鉄橿原線急行停車駅「八木西口」駅から飛鳥川に架かる蘇武(そふ)橋を渡り、北尊坊通りに入って徒歩3分です。通りの角には、「ももや」の敷地内に今井町の公共案内板があります。16世紀の戦国時代に、”武装宗教自治集落”として成立した寺内町(東西600メートル×南北310メートル)であり、当時から9つの門からしか町内には入れませんでした。上の写真のように、「北尊坊門」の構図が、通りの地面上のプレートにあります(下部分の写真は、復元された現在の南町生活広場にある門)。

今井町の成立は、五百年前の室町時代の1533年


「ももや」がある今井町は、歴史上に名が出てくるのは、1386年(至徳3年)に五重塔や阿修羅像でも有名な興福寺領(私有地)として、「今井庄」が最初です。
よって、上図の年表にあるように、実質的には室町時代中期1533年(天文年間)の寺内町(じないまち)の成立から始まります。これは、当時戦国の荒れた時代に、一向宗の問徒であった今井兵部という僧が防衛のため、”武装宗教自治集落”として御坊(称念寺、しょうねんじ)を開きました。今井町は、いわば堀と土手と小橋で囲われた環濠(かんごう)ゾーンであり、9つの門からしか町に入れなかったことに象徴されています。500年に及ぶ歴史はそれゆえ「堀と土手」の要塞都市(約1100軒、人口4000人強)として外部からは入りにくく、”真空パック”されたように町割りが維持されたゆえ、守られてきたとも言えます。

“寺内町”から大和一の経済中心の”在郷町”へ発展
天下統一を目論む織田信長に敵対するも、本願寺の降伏に伴い、1575年(天正3年)、明智光秀や堺に住む今井町出身である三代茶人の今井宗久や豪商のとりなしで和睦に持ち込み、門や堀を撤去し、武装放棄しました。信長からは「万事大坂同然」と自治を許され、商業の街として発展を遂げます。その賑わいは「海の堺、陸の今井」と呼ばれるほどでした。

その後は、巨大な在郷町(ざいごうまち)、今風にいえば綿・絹・酒・醤油・味噌・材木等の”商工業都市”として経済発展し、「今井千軒」「海の堺 陸の今井」と呼称されるほど、大きく成長していきました。町のサイズも元々の東西南北の各町にプラスして、飛鳥川の蘇武橋から50メートルの「ももや」がある今町やその南の新町に広がり、現在の「町割り」になりました。

1600年(慶長5年)、関ヶ原合戦後、一時幕府の天領になり、二度目の天領になった1697年(延宝7年)頃は今井町の最盛期で、1634年(寛永11年)には銀札(今井札)を発行するまでに至り、「人口4000人、家数1082軒」と大きく裕福な町でした。

因みに、「ももや」がある北尊坊通りは、別名”北御堂”と呼ばれる順明寺まで、「ゴールデン・ストリート」でした。北尾家の屋号は新堂屋で、「今井の新堂屋、お金持ちで、金の虫干し、玄関まで」と唱われました。さらに、現在の南都銀行畝傍支店跡(今井町1-3-13)は、1896年(明治29年)に、今井町の没落豪商達や篤志家が「畝傍(うねび)銀行」として立ち上げた金融機関でした。

今井町は、三大茶人の今井宗久を生み、秀吉も訪れた「茶」と「茶人」の町
今井町出身の今井宗久(千利休と津田宗及とで、天下三宗匠)は、織田信長・豊臣秀吉と二代仕え、良好な関係を築き、吉野詣の途中、今井町の茶室に招き入れ、お茶を振る舞ったとの記録があります。それが、毎年5月に行われる「茶人行列」に伝承されています。秀吉や宗久に扮した町人が北尊坊通りの「ももや」の角を曲がります。

それゆえ今井町は1634年(寛永11年)に「今井札」という地域通貨が生まれるほど経済的に豊かになり、町民は茶道などの文化・文芸にも勤しみ、華道・能楽・和歌・俳諧などが好まれ、各地との交流も盛んになりました。茶器は、1619年(元和5年)から1679年(延宝7年)まで大和郡山藩預りだった縁があり、「ももや」の一階階段下のミニギャラリーに展示している「赤膚焼」も多数使われていたと考えられます。この可能性は、信長が1582年(天正10年)6月に「本能寺の変」で亡くなる前日にも多数の中国からの高額茶器を持って茶会を開いたことで、主要なものは全て焼失してしまった史実からも推し量れます。

数々の幸運があって生き残った”奇跡の町”
時代は進み、徳川時代には幕藩体制の中、天領になるなど、時の天下人との距離の取り方がうまくいったのも、町と自治権が生き残った理由の一つでしょう。また、町内の結束力が固いゆえ、大きな火事を出さなかった幸運も、国指定の重要文化財が9棟、500軒超の伝統的建築物が残る”奇跡の町”の維持にはありました。

明治天皇の宿泊と政府要人の宿泊
因みに、明治天皇も明治10年(1877年)に今井町で宿泊され、「ももや」の前の北尊坊通りの山尾家には、明治政府を代表して木戸孝允(きどたかよし)と三条実美(さんじょうさねとみ)が宿泊しています。信長と争い、秀吉を迎え、また近代日本を創った明治の重鎮達が今井の町を歩いたとすると、歴史がことの他身近に感じられ、感慨深いものがあります。

ユネスコから世界遺産への打診があるも断る⁉️
2017年1月26日号の「週刊現代」で、今井町の町並みが、重伝建保存地区に選定されれ1993年頃、ユネスコの「世界遺産」に登録されるチャンスがあったことが記述されています。
「実は世界遺産について日本人の多くがあまり興味を持っていなかったとき、ユネスコが橿原市に対して今井町を世界遺産に登録したいと言ってきたんです。
父親(今西家)にその話が来たんですが、今井町の人が誰も世界遺産についてわからなかったので、『今井は反対だ』と言って断ってしまった(笑)。」
(白川郷は1995年12月に、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」としてユネスコの世界遺産へ登録)

もし、京阪神から電車でも1時間圏内にある便利な「今井町」が世界遺産に登録されていたら、毎年100万人以上が来町し、町は風情がなくなり、落ち着いて生活できる状況ではなくなり、単に騒がしい観光地になっていたかもしれません。

2020年7月放映のテレビ東京系の「アド街」で「日本の宝」のNo1に選出された今井町ですが、キーワードは「(古民家群に)普通に生活している」ということで、その魅力を伝えてくれています。
https://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/smp/backnumber/20200704/140789.html

「日常が非日常の町--今井町」
そして今の今井町の魅力を表すキャッチフレーズは、「ももや」は公式ウェブサイトで、「日常が非日常の町--今井町」としています。

理由は今井町は決して単なる観光地ではなく、成り立ちは、御坊(称念寺)を中心としたこじんまりした城塞都市。現在町に住む千人の住民達は、大阪・京都に近鉄で1時間圏内。普通に通勤・通学し、生活を営んでいる町だからです。

最寄りの急行停車駅の近鉄橿原線「八木西口」駅まで徒歩3分。駅の反対は橿原市役所であり、行政の中心でもあるし、近鉄百貨店橿原店もある。特急停車駅の「大和八木」駅からも徒歩10分もかかりません。

それゆえ、歴史的建造物が多い「非日常的」な町で重伝建保存地区に指定されていても、その前に住みやすい「日常」がまずそこにあり、共存している”奇跡の町”であるとも言えます。